昭和50年06月03日 朝の御理解



 御理解 第78節
 「神の気感に適うた氏子が少ない、身代と人間と達者とが揃うて三代続いたら、家柄人筋となって、惟が神の気感に適うたのじゃ、神の気感に適わぬと、身代もあり力もあるが壯健にない壯健で賢うても身代をみたす事がある、又、大切の者が死んで身代を残して子孫を断ってしまう、神のおかげを知らぬから互い違いになって来る、信心して神の大恩を知れば、無事壯健で子孫も続き、身代も出来、一年勝り代勝りの、おかげを受ける事が出来るぞ。」

 人間と身代と達者とがそろうて三代続いたらと言われます。先ず人間がそれでなければならぬ、身代と達者とが、しかも三代続いたら神の気感に適うたとこうおおせられる。神の気感に適うと云う事は、神様の御心に適うと云う事はどう云う事か又最後のところに神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続きとおおせられるのですから、この辺のところを頂いて行きたい。
 無病息災家繁昌子孫繁昌と、そう云う事を願うと云う事が信心の様に思うておる。成程只、無病息災だけを願った、又は家繁昌又は商売繁昌、所謂平穏無事だけを祈ると言う事が、神様や仏様にお願いをする時に、そこの所だけを願えば良い訳で、結局神様から頂くものとしておる。それはいくら願うてもそれではおかげにならん、金光様の信心は。神の大恩を知ればである。
 神様の大恩を解らして貰うと云う事を、信心にしなければならん。まず先決にしなければならん。神様の御恩が解る。それはお話しを頂ます。私共が生きて行くと云う上に、様々な生きる条件と云う物があります。そのどの条件の一つを見ても言うても、天地の親神様のおかげにならない者は、何一つとしてないのですから、それを神様の大恩と解らして貰うて、その大恩に報いる生き方さして貰らうと言う事が大事です。
 そしてその大恩の極まり無い事、神様の御働きの尊い事を解らして貰うと言う事を様々な、言わば工夫をさして貰うて、そこのおかげを頂かして貰わなければ、神の大恩を知れば、例えば無病息災を例えば願わんでも、無病息災、身代は願わんでも身代が出来て来るおかげになって来る訳です。又身代をみたす事、又大切な者が死んで身代を残して子孫が絶つ、断絶してしまうと云った様な事は無いのです。
 ですから先ずは神の大恩を知ると言う事です。話を聞いて解ると言う事なら、例えば今聞いて、ああ本当だなぁそうだと解るんです。私共が生活をして行く上に生きて行く上に、もう必要な例えば条件のその全てが、天地の親神様のご恩恵にならざるものはないんだ。考えて見ると成程そうだなぁと思いますけれどね、第一目には見えないけれども吸わせて頂いているこの空気でも、一掬いの水でも一粒の言うならお米でも、天地の言うなら御徳になる物ですから。
 ここんところ解ったらそれを押し頂く心の状態と云う物が出来て来なければならん。そこで最近合楽で言われるこの神道を、この神道をさせて頂くは私くしは愈々神様のご恩徳をご恩徳として解らして頂く、まっ一つの手掛りになると思います。例えば何時も私くしが例を申しますが、例えばですお風呂に入らして頂いても、お湯を一掬いのお湯でも大切に、石鹸でも大事に、タオルも大事にしかも大事にすると云うのも、心を使わして頂くと様々な工夫がおのずと出て来る。
 言わば使うて有り難う御座いましたと言う、石鹸にお礼を言うても、後石鹸そこにほうたらかしたなりしとりますと、もうドロドロになって明くる日使うときにゃ、本当にお粗末な事になってしまう、有り難う御座いますと言うただけじゃいかん、その石鹸を本当に大事にする、どげんしたらどう言う風に使うたら一番大事かと言う事、そう言う事を思う事が心行なんです。
 タオルでもそうなんんです、だからこりゃ風呂場だけででもそう言う心行が出来て石鹸のそこが解って、大事にして有り難う御座いますじゃなからなければ、値打ちはない訳です、唯使うた石鹸に有り難う御座いましたとお礼言うただけじゃ、お礼を言う程しならその石鹸を大事にしなければならん。どう言う風にしたが一番なら大事にするかと云う事を工夫しなければならん。
 そこで始めて物に御の字が付けられる様になる、御物と云う事になるのです。もう本当にこの御の字を付けさせて頂かなきゃおれないと言う程しの物がです、神の恩が解ったから神様の御物と云う事になるのです。そう言う意味でなら甘木の親先生当たりのご信心を頂くとです、一切が神様の御物それは枯れ枝一枚一本でも神様の御物ばいと言われた、そしてそれを押し頂く様にして頂かれた。
 成程あれ程の大徳を受けられた筈だなぁ、神の大恩が解られたのですから、あぁ言う大変なおかげを受けられたんだなぁと言う事が解るでしょう。もう私くしが何時も思うんですけれども、私くし共の若先生は非常に、その粗雑に出来ているのです、もう欠点と言うなら惟です。もう本当に言わばこの辺の言葉で言たら「ろくそう」なかです。もうそりゃたまがる程に「ろくそう」なかです。
 昨日も私しここん所の手文庫のこの机がこう高う上がってから、普通入れられるとか入れられませんから、こう引っ張り出して見た所が、中にあのう教会印やら私の実印やらを入れとる訳です。それをそのう使う訳ですね、色々そしてそのう私くしはそれをキチッとこう、此処にこう言う風に入れなければ、キチッと整頓出来ない様にしてありますから、そこに一寸風呂敷剥ぐって入れヽば良いけれども、上にポンと置いたなりです。
 昨日は若先生が、親教会に月末のあのう御礼をしとりませんでしたから、あぁあのう私に代ってこの頃必ず月末のお礼に出てくれます。だからそれが昨日でした。カバンが無いですからカバンはと言うたら、あちらに忘れとると言うから、自分の部屋の方から持って来てくれました。持って来てくれるのは良いですけども、中をこう開けて見た所が、御神米入れの入れと袱紗はごちゃごちゃして別々にこう入れてある。
 もう本当にたったそれだけの事ですけども、如何に「ろくそう」なかと言う事が分るでしょうが。それはもう性格ですからね、性格ですからそのまぁキチッとせねば出来ん人もあります、けれどもキチッとしておるから神の大恩がわかっておると言う事じゃないです。今日私が言う話を聞いて、まあ本当にそれこそ風呂に入らせて頂いて石鹸一つでもです、神様の御物と言う事を聞かせて頂いたから、それを大事に使う、それを使うたらお礼を申し上げる。
 ならお礼を申し上げただけじゃいかん、そんならその後をどうしといたが言うならその石鹸を大事にしておく事かと言う事を、心を使って始て心行なんです。だから性格的にキチッと者が有ります、性格的に言わば粗雑な人が有ります。だからその粗雑の人がです、本気で信行をさせて頂こうと言う事になって、例えば頂いて来たその御神米の入れなら御神米入れを私くしが初め包どる様にキチッと袱紗に包んで鞄の中に入れておく。
 あヽ自分はこげん所があのう粗雑だったから、惟は昔から言われとりますけれども、粗雑な人はもう絶対お徳を受けられないと言う事になっとるです昔から、例えばならお三宝なんかもう本当に、お徳を受けられる先生方、ある先生なんかは、あのう三宝置かれるのに尺持って来てから、寸分違わん様におかれると云う程しに。弟子達に御神米を折らせられるのにね、決してもう何百体と折らんでん、何十体でも良いからキチッと折れと言う風に教えておられる。
 ですからね「ろくそな」人がです、はぁ自分な「ろくそな」と気付かせて頂いてね、それはんならそら「ろくそうに」した方が早うして良いです何でも。それはもうあのう、お届け帳の例えばあれだけのお届帳もアッと言う間に若先生はお届けします。だからサアと言う時には間に合いますけど、それは実際お届帳を見て、それは「ろくそうな」こつです。もう一つ所書くとでも、めんどうぐさかごと絶対書きません。その替わり早いこと早い事ばさらかです。
 だからそう言うなら、それをなら自分なこんなに「ろくそうな」かから、「ろくそな」こっちゃおかげを頂かれん。又は心行と是を心行とそう思う事ね、私と同んなじ所から何時も此処へ上がって来ます若先生、外ん者んこう回って来ますが、若先生だけは此処から上がります。もう何時もスリッパの揃うとった事がないです。ですからそれをねちょっと真直にすると云う事がです、言うならば心行でもあり、なら神様の御ものを大事にしておる印にね、こう揃えると云う事です。
 神様の御ものであると云う事を解らせて頂いたのだから、それを使うたら、お礼を申し上げる心だけでなくて、お礼を申し上げたら後をどう取り扱う事が本当な事かと云う事を、例えばなら「ろくそな」人が、それを心行と考えさせて頂く様にになったらです、もう素晴らしい私しはおかげを受けられる様になると思うです。そして初めて所謂神様の御物だなあと言う事が解るんです。
 今日は皆さんに神の大恩を知れば無事達者でとこう、しかも子孫も続き代勝り、子孫も続き身代も出来一年勝り代勝りのおかげを受けられると教えとられるのです。だからお互いがです此処ん所頂きたいでしょうね、子孫繁昌も願い頂きたい、身代も出来るおかげも頂きたい。しかも代勝りのおかげを頂きたい。ね。平穏無事を願う、無事達者を願う、無病息災を願う、ならそう云う事を只願う事だけが金光様の御信心ではない、そう言うおかげが受けられる信心を教祖の神様は教えておられるのです。
 それをならその第一をどう云う事に教えておられるかと言うと、神の大恩を知ればと仰っとられるね。神の大恩を知ればです、神の大恩を知れば無事達者と子孫も続きと言う事になっとるのです。そこで神の大恩を知る一つの手掛りとしてですね、話を聞けばね石鹸一つでもタオル一本でも、神様の御恩恵になるものお恵みの物である、御物であると云う事は話を聞いて解った。
 解ったからそれを一つ本気で大事にして見るのです。そしてならどう言う「ろくそうな」人でもですそこに心行、心の行を使わして頂いて、惟はこう云う事ではいけないと言う心の中にです、行をさして貰いながらね、大体は「ろくそうな」かっじゃけんパーンとした方が早かけん良かごとあるけれどもですね。そこを一つ心行でそれをなさして頂いて行く内にです、言うならば御物が御物として解って来る様になるのです。
 皆さんもう本当にね最近合楽で言われる心行と云う事は、そう言う事にまで心を願わして頂くと云う事が、即心行なのです。甘木の初代がね枯葉、枯枝一本でも一枚でも、ほ古紙一つでもお粗末になさらなかった。タオルなんかでもお風呂に入って決して固く絞り切る様な絞る事は、決してなさらなかったと言う事です。それはもう愈々御物である事が解られたからそうなのです。言うなら神の大御が解られたから、そうしなければ居られなかったので、おありになると私は思います。
 そこでなら私共は甘木の初代の様に、そのうまぁ微に入り細に渉っての事は出来ませんけれども、せめて真似でもさせて頂いてです、矢張り工夫をすると云う事が、最近は心行と言われとります合楽では。神様の御物なら御物をどう云う風に頂いたら、又どう云う風に使うたら、使うた後はどう云う風に始末さして頂いたら、ならそれを大事にしておる事かと言う事が解ります。
 もう惟は一事が万事なのですからね、なら今日からは一つ本当に石鹸を使うて神様にお礼を申し上げる。石鹸一つでもお礼を申し上げる。ね。ならその拝む程に有難う思うた石鹸ならばならどうしたら良いか、どう大事にさして頂いたら良いかと、言う工夫をしなさらなきゃいけません。それを心行と行う事と一つになって行く内にです、神様は御物は御物としての値打ちと言うか、御物としての有難さが解って来る様になるです。
 そこでね言うならばあのう石鹸だけじゃありません、タオルだけじゃありませんまぁ一事が万事にそう言う心掛けにならして頂くと云う事です。ならそう言う心掛けにならせて頂く事が信心かと言うとです、それに伴うてです、神の大恩が解って来る信心。だから今度はもうそうしなければ居られない事になって来るのです。そして初めて物なら物に御の字が付けられて、御物としてそれをおし頂く心が生まれて来るのです。
 神の大御が解れば子孫も続き身代も出来、人間も親の代よりも子の代へと繁昌のおかげを頂かれると、はっきり此処に教えておられるのですから。惟はどうでもです、皆さん本気でね、神の大恩が解らなければいかんのです。お話を頂けば神の大恩を説いて下さるから解るのです。だから解ったらそれを実行しなければいけないのです。ね。そしてそこから実行すると言う事だけでも工夫が出来て来るです。
 昨日そこの久保山さんが毎朝あヽしてお参りになって居られます。昨日此処で改めてお届けをなさいました。皆さんも御承知の様に足に水の溜まると言う病気で、それはまあ大変難澁な病気らしいです。毎月病院に水取りに行かにゃならん、その痛い事痛い事、もう大変な事らしいです。それでまぁ金光様にお参りしておかげ頂こうと云う事になって、おかげを頂かれる様になってから、もうその月から医者を止められた。
 そうしてその月からおげを頂いて、水取りに行かんで良い様におかげを頂いた、座られんのが座られる様になられた。その頃から信心が言うならば始まりで、それこそ毎日有難うして有難うしてと言う日々過ごして行かれておられる。所が昨日のお届けですから、一昨日の事でしょう。今あの娘婿さんがこちらえ見えておられる。外へ出ておられる、それけお母さんは御飯も食べずにお御馳走を造ってちゃんと待ってあった。所が待てども待てども帰って来ん。
 所が八時になったら電話が掛かって来た。今何処どこの焼肉屋に行ってもう御飯なしまえち来るけんで早ようたべて、早ようして早う御飯を食べとかんのてんなんて、八時までも待たせといてからね、そして自分は焼肉屋にどん入っと言うてから、どうした奴じゃろうかと思うてから、そりゃ腹が立っ腹がもうそれこそ、もうそれこそ迂闊ですよね人間は。もうそれが腹が立ってたまらん。
 所が親先生、昨日ばっかりはもう恐れ入りました、と。今までは動きよった足が動かんごとなった。そしてすぐあヽ腹どん立てたら馬鹿らしいか、腹どん立てちゃ出来んばいと。何時も親先生が言われるから、もう何時もそれこそ、その事だけは自分の心に掛け通しに掛けておる様であって、たったその事に腹を立てておった事に気付かせて頂いてから、もう一生懸命神様にお詫びをなさった。
 そしたら親先生、ご本人から聞くとまだリアルな話なんですどもね、おかげでまた足が動くごとなった。この事は前後の事をずーとお帳面に書いて控えといてですね、惟はもう一生あのーこげな「あらたかな」事で、有難い事にもこんなにてき面なら、又はそれとは反対の事もてき面。いかにこの足が唯自然に治ったのじゃない、神様のおかげでおかげ頂いておると言う事が解ったと言うお届けがありました。
 惟なんかは、例えばなら物を大事にね、御の字を付けてと言う、自分の心と言うものはもっと大事にしなければいけんのです。自分の心と云う物を、もっともっと大事にせねばいけません。ね。それを迂闊にしておりますから、目に見えないから、有るやら無いやら解らないのが心なんですけれども、迂闊にしておるから例えば腹が立つ。その位の事に腹が立つ。ですから問題は信心は心懸けです。
 そのない心を大事にすると言うその事がです心行なんです。一つ本気で私くしは最近合楽で言われておるね心行と云う事を、もうあらゆる角度から頂いたらもう心行は何時っも出来るんです。惟はもう本当にそうです。もう目が覚めたらもうすぐから心行が出来るんです。そしてする事成す事の中にどう心を使い、どう此の物を扱いどうしておくが一番神様が喜んで下さるか、人が喜ぶか人が気分良く出来るかと云う事をです、そう言う心を使う事が心行なんですから。
 自分が例えばならスリッパ一つでもこう、もう「ろくそう」にして上っとるならです、これじゃ後から見た人がです気分が良くあんなさるまいと言う心を使うのす。だから、それをキチッとせなきゃおられないのが行です。思うのが心(しん)ですね。だから、心(しん)と行とが一緒にとものうて心行です。神様の一切が御此処ではなら御事柄と言い、または御物と言いその事柄と言い、言わば物と言いです御の字がを付けられる程しの信心をいただかしてもらう。
 不思議に例えば、例えば家の若先生ぢゃないですけれども、大体が性根が「ろくそうな」か、粗雑に出来ておるねですからあヽこよなことぢゃお徳が受けられん、こんな事ぢゃおかげが受けられんと言われるから、そこに心行を心を使わして貰うてです、例えば十分かかるとは二十分掛かっても良いからですね、キチッとする事に心を使わせて頂いて、それを行う事が心行になるのです。
 だから言うならば「ろくそうな」人程その心掛けにならせて頂いたら心行が出来る訳です。こりゃだから性格的にキチッとしたとが好きだと言う人は、そうせにゃ自分の気色が悪かけんでそうするとじゃから、それは大した事ではないです。心行にはならんです、それが性分じゃから、ね。ですからむしろ出来ない人が出来る事を努めして貰う、そう言う心を使わして貰うと云う事がしんであり行であると云う事になるのです。
 そうして行く内にです成程、神様の御物だな御事柄だなあと言う事が解って来るのです。自分のなら体一つでも心一つでも大事に使わせて貰うと言う、そうして行く内にです、神様の言うならば大恩がひしひしと解って来る様になる。そして、それを行ででもせにゃおられないと言うものが身に付いて来るね、甘木の親先生の様な信心が出来る事になる。神の大恩が解った事になるのです。
 神の大恩が出来るからあの様な大徳を受けられるのです。解っただけぢゃいかん解った物を、それなら押し頂く心の状態が神の大恩が解ったと言う事になるのです。何でん後からお礼を言はなきゃ、拝まなきゃとこう言うけれども、石鹸一つでも使わして頂いて有難う御座いますと言うてお礼を言うて、そこにぽんと放ったらかしにしときゃ、もうジュルジュルになってしまっとる。
 そりけんちゅうちから綺麗に拭いときゃ拭いただけそれだけ損になるお粗末になる。そこで私の行き方の様にサッと水を切っといて、そして風通しの良い様に言うならこう橋さわらけえとく。そうすると次の使う者も気持ち良い、同時にそうさして頂かねばおられない心が、石鹸の言うなら有難さと言うか石鹸を通して神の大恩が解っておるから、そうしなければおられんのですから、おかげを頂くのですお徳を受けるのです。
 皆さん今日はどうでも一つ大恩を解らせて頂くその一つの手掛かりとしてです、今日は取分けねキチッと物を大事にする、しかも大事にしただけでなっくてもっともっと大事にされる方法はないだろうか、今日は久富先生が居んなはらんから、後から聞きなさる事言うとくか、一緒にお風呂は言ってもう私しを綺麗に洗うて下さってから、もうそれこそ私のタオルも洗うて下さる。けども一々そげな事まで言はれんけん言いませんけれども、そらもうあの七十幾つでですね、そらもう元気な事は本当に元気です。
 けどタオルばてんで絞り切るごと絞ってですね、絞るだけならまだよかばってんバチッとこう、あれだけでもタオルが私しは早う破れると思いますばってんね。先生そげんあんた私しん事して下さりよるとですね、もうこりゃ入るたんびに気付く事なんです。絞るだけならこうこう位いなら良かですばってんね、もうこうやってバチッと音がするごとしなさらにゃ自分が気が済みなさらん。それではタオルが早う破るるです。
 だからタオルの恩が解ったら一時でも永う使わにゃ出けんと、勿体ないと思われたらです、恐らく今日は繰り返して聞きなさろう。又そこから改めなさる事が出来るじゃろうと思いますけどね。そう言う細かい所までにも心を使う事が心行です。だからもう心行ちゅうことはもう四、六時中出来るです。そりゃもうそして楽しいです心行は、もう実に楽しいです。成程表行なんかほんにおかしくってと言う事になります。
 行、行と言うけれども心行はもうずうっと出来るです。然も限りがないです。そして初めてです本当に心からお礼の言えれるね、おかげを頂いた時に石鹸の恩が解った神の恩が解ったと言う事に言わばなるのです。大恩神の大恩を知れば無事達者で子孫も続き身代も出来、一年勝り代勝りのおかげを受ける事が出来る。もう此処までが皆の願いなんです本当言うたら。だから此処ばっかり口で唱える人がある訳です。
 無病息災商売繁昌、家内安全と言うて、此処だけを言うならば願う人がありますけれど、願うからおかげになるのじゃない。そう言うおかげの頂けれる信心は、先ずは神の大恩が解らねばならないと言う事ね。解ったらそれをです、いかに大切に大事にさせて頂く事と云う事が、神の大恩の解ったか人の生き方か有からかと云う事を、身に付けて行く内にです、愈々以って神様のお喜びを頂く事出来ると同時にです。
 神の大恩が深く広く解って来る。ですから金光様の御信心は、もう本気でその事を解らせて頂くとねもう、実に容易うして楽しゅうして有難いです。そしてなら私共の願いである所の身代の上にも、人間の上にも様々の上におかげを受けて行けれるのですから、然も久保山さんの例を取りました様に、今の合楽のお広前にはね久保山さんのそう言う新たかな、言わば霊験と言うかそう言う神様の働きが、今合楽のお広前に一杯充満しとるのですから。合楽で稽古を本気で、そう言う思いをさせて頂いたらです。
 私はもう最近もう毎晩夜中に一遍出て来るんですけども、もう本当に何ちゅう「ろくそな」こっちゃろかと思う、昨日なんか事務所のあちらのこちらの窓が、鍵を掛ない新舘の向こう雅欠けてない。まあ惟はどうした事ぢゃろうかと、惟はもう度々思うです。出口のあそこもう電灯が点け忘れておる。点けて消してない。本当に神の大恩が解れば、あんなお粗末な事は出来ません。だからそこだけにでも心を使わして頂いて、果たして一遍見て回ったがもう一遍見て回ると言うごたる。
 そう言う心がしんであり、それを行うことが行なんです。そらもう本当にもう家に泥棒でも入るならどげな事でん出来るだろうと私は思います。事務所のあれは(ロッカーの事)金庫があすこに入れてありますけれど、鍵も何ぁんにも掛かっとらん、カラガラ開かる事。半分な開いとるから金庫がそこに見えよる。上には何か写真機のごたる、もうほんに泥棒気のなかもんでんです。
 慾気の起らせんぢゃろかと思うごたる風にしてあります。「ろくそうな」事「ろくそな」事バサラ。からそう言う「ろくそうな」人達程、けども心行を本気でその気にならして頂いてです、それが出来る様になった時が本当に行です。そしてですね、本当に神様の前に全ての事が、それこそキチッと出来る様な、いやそうしねば居られない心を頂いた時が、押し頂く心が出来た時と言えると思うですね。
   どうぞ。